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 久能山東照宮博物館

久能山東照宮博物館 展示

2009年2月28日(土)~4月24日(金
「公爵徳川家達」

 徳川家達は、御三卿田安家の当主であった田安慶頼の3男として、文久3年(1863)7月、江戸城内の田安邸に誕生しました。幼名を亀之助といいます。亀之助が生まれた文久3年は幕末政治の転機となった激動の年でした。14代将軍徳川家茂が、将軍として230年ぶりに上洛し、政治の中心が江戸から京都へと移りつつあった時代です。


 政治とは無縁の亀之助に転機が訪れたのは、家茂が死去した慶応2年(1866)でした。家茂の後継者として、亀之助の名が挙がったのです。家茂の遺命を受けた天璋院篤姫も、家茂と同じ血筋の亀之助を当主にするよう強く主張します。しかし、この時亀之助は数えで4歳。幼少将軍では立ち行かないほど、幕府は追いつめられていました。結局、血統よりも政治力で勝る水戸家出身の一橋家当主徳川慶喜が、15代将軍に就任しました。


 慶応4年(1868)正月、鳥羽・伏見の戦いに敗れた慶喜は「朝敵」とされ、薩長中心の新政府に恭順を誓いました。天璋院らの尽力もあって、家名存続が認められると、亀之助は新政府の命により6歳の若さで16代当主に就任します。この時家達と改名しました。さらに徳川家は駿河70万石に封ぜられ、家達もわずかの家臣を従え、静岡に移住しています。しかし、明治4年(1871)の廃藩置県により東京に引っ越し、明治の新生活を開始していきます。


 明治10年、西洋新知識の習得のためイギリスに留学し、英語だけでなくイギリスの政治体制も身につけました。同17年の華族令では公爵となり、同36年以来30年もの長きに亘って貴族院議長を勤めるなど、国内にあって常に華族のリーダー的存在でした。大正3年(1914)には内閣組閣の大命も受けています(結局辞退)。そのうえ、第一次世界大戦後の国際秩序を構築するワシントン会議の全権委員として参加し、親英米派の重鎮として国際協調に尽力するなど、外交面での活躍も見せていきました。従来あまり取り上げられることのなかった家達ですが、19~20世紀の政治・外交を語るうえでは不可欠な重要人物です。紹介できる資料は限られていますが、家達や明治・大正期の徳川家に興味を持っていただけたら幸いです。

    平成21年2月

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