日光山輪王寺宝物殿
日光山輪王寺宝物殿 展示
2011年6月17日(金)~8月10日(水)
降嫁150年 和宮ゆかりの品々
文久2年(1862)に14代将軍徳川家茂と婚礼をあげた親子〔ちかこ〕内親王(和宮)は、弘化3年(1846)に仁孝天皇の第8皇女として誕生し、幼称を和宮と称しました。4歳の折、有栖川宮熾仁〔ありすがわのみやみやたるひと〕親王との婚約が調いますが、時代は風雲急を告げ、嘉永6年(1853)のペリー来航以降、日本は開国と攘夷に揺れ始めます。和宮の降嫁は、緊張する朝廷と幕府の関係を鎮め、公武一和を実現するために決定されました。
文久元年(1861)10月に京を発した和宮は、翌月に江戸城へ入り、翌年2月に家茂との婚儀を執り行います。この婚姻は政治的な駆け引きによるものでしたが、家茂と和宮は互いに自身の役目を理解し、誠実に接していきました。しかし、慶応2年(1866)年6月、長州征伐のため上京した家茂が大坂城で息を引き取ります。和宮は薙髪〔ちはつ〕して静寛院宮〔せいかんいんのみや〕と称し、帰京を決意しますが、その後の政情は大政奉還、鳥羽伏見の敗戦と著しく変化し、徳川家は存亡の危機に直面します。そのため、徳川家の行く末を見届けずして江戸を離れることはできないと考えた和宮(静寛院宮)は、13代将軍家定の継室天璋院〔てんしょういん〕とともに江戸総攻撃の回避と徳川家名存続に尽力し、慶応4年閏4月に徳川亀之助の徳川宗家相続が認められます。そして、亀之助が新たな領地である駿河へ出発したことを見届けたのちに京へ戻りました。その後、明治7年(1874)に再び東京に移居した和宮は、同10年に32歳の若さで薨去し、夫君家茂の霊廟がある芝増上寺に葬られました。
このたびの展示では、和宮の文具類や家茂に贈った和時計、天璋院からの手紙など、身近な品々をご紹介します。朝幕間の融和と徳川家の救済に奔走した和宮の江戸城での暮らしの一端をご覧いただけますと幸いです。
平成23年6月公益財団法人 德川記念財団